カッコつけかた「団塊」に学べ
残間里江子 プロデューサー
 戦後最長といっても、良くも悪くもないふつうの時間がずっと続いてきたような景気拡大期だったが、その終わりにさしかかって、吹く風がいきなり冷たく感じられるようになった。
 とはいっても、団塊の多くの人たちは、まだ風の冷たさを実感していない。私一人だけじゃない、みんながいるから大丈夫と、のんきに構えている。幼いころから多くの仲間とひしめき合って生きてきた団塊世代にとって、自然に身についたコミューン(共同体)的な感覚が冷たい風にも吹き飛ばされないという自信を支えている。
 奇妙な自信のもう一つの支えば、貧乏の体験だ。高度経済成長を担った団塊世代には、経済の谷底にずっとうごめいてきたという記憶はない。だが、物心つくころは、戦後の貧しい光景があちこちに広がっていた。飢餓も含めて、貧乏や困窮の味は、疑似体験にせよ誰もが知っている。団塊の人たちにとって、これから吹きつけるだろう冷たい風も、人生のスタート時の大変さに比べれば物の数に入らないと思えてしまうのだ。
 団塊の世代は、後に続く現役世代からは「ハッピーリタイア(幸福な引退)」などと揶揄される。一方で上の世代を見れば、後期高齢者医療制度の冷たさが、やがて自分たちも襲うのではないかという不安にとらわれもする。そんな中で、定年退職後に初めて迎える不況。その風を肌身に感じたら、彼らはうろたえるだろうか。
 「お金がないなら、高い酒を飲むのはカッコ悪い」。それが団塊世代の選択だろう。いっそ昔たしなんだ安酒で若い頃の思い出に浸る方がカッコいい。
 あるいは「最近、野菜が高いから、自家菜園を始めた」と、友だちにカッコつけるだろろう。「都会でカツカツに暮らすのもなんだから、地方で町づくりプランナーの募集に応募したよ」と、移住の理由をカッコよく説明するかも知れない。
 団塊世代の価値観の軸はカッコいいか悪いか。分かれ日は知的(に見える)かどうかだ。自分の感性や考え方に共鳴してくれるはずの友人が、カッコいいと評価するか、どうか。 この(単純な)価値観が、冷たい風に抗するのに意外と力を発揮するのではないか。こん経済情勢下で「富裕層の皆様に」などというささやきかけ乗るのは、まことにカッコ悪い。みんなが生活に苦労しているのに、自分だけがいい目にあっていると感じるのは、本当にカッコ悪い。そう思うのはまさに、暮らしを身の丈サイズに合わせる団塊の知恵だと思う。
 無理にカッコつけているわけではない。バブル以降に買いためて消費しきれなかった物が、たんすの中にいくらもある。おごってしまった舌も、昔はご飯と漬けもので満足していたと思い出せば、ここ何十年かが食べ過ぎだったんだと思い直せる。退職記念に買った高価なギターだって、手に入れた日の感激をいちど個人史に書き加えたなら、ちゅうちょなく手放せる。
 明日は檜になろうとずっと思い続けてきた団塊世代は、同時に「ダメでもともと」の潔さももっている。団塊にとって、ともに座右の銘である「あすなろ」と「ダメもと」は、格差に苦しむ若い世代にとっても希望の言葉となるのではないか。
◇50年生まれ。アナウンサーや雑誌編集者を経て独立。生活・地域振興やマーケティングなどに詳しい。著書に「それでいいのか蕎麦打ち男」など。
《出典》朝日新聞 (20/08/21) 前頁      次頁